昨日は、疎開先の様子を紹介しましたが、今日は横浜に残った子どもたちのことを紹介します。

 

 横浜大空襲は昭和20年の5月29日ですが、それ以前から東京や横浜への空襲はどんどん激しくなっていきました。

 空襲がない時も、夜は警戒のため、電気をつけられないなど、落ち着いて暮らすことが難しくなっていました。

 

 そして、昭和20年5月29日の横浜大空襲を迎えます。

 この日、アメリカのB29(爆弾を落とす飛行機)から、2570000㎏もの焼夷弾(火事を起こす爆弾)が横浜に落とされます。

 

 東国民学校にもたくさんの焼夷弾が落とされます。

 当時の学校は鉄筋コンクリートの建物だったので安全と思い、たくさんの人々が逃げてきましたが、校庭や校舎にたくさんの焼夷弾が落とされ、学校の周りは火の海になりました。

 写真は、空襲の後の学校の様子です。

 

 本当にたくさんの人(横浜市では4616人)が亡くなりましたが、学校でもマンホールやトイレに逃げ込んで助かった方もいらっしゃいました。これまで東小学校では、そういった方々のお話を5月29日の朝会で聞いていたのです。