校歌

作詞: 靄見 明音

作曲: 小井戸 代次郎

    1.あさ日かがやく 金波のみなと
          仰ぐ不二の嶺  夕日ははゆる 
          子安の丘に   きそういらかは 
          ゆかりめでたき われらが母校

    2.はまの文化に  その名をきざむ
          こよなき父の  おしえに生きる
          とわのほこりを 心にしめて
          いざやたたえん われらが母校

    3.あかるく強く 正しくまなび
          希望の高嶺に いまぞのぼらん
          六つの星かげ さやかにてらす
          心のふるさと われらが母校

 

校章

2代目校旗3代目校旗

 

校章の由来(左が2代目、右が3代目の校旗)

横浜市をローマ字で書いたYOKOHAMAの頭文字の『Y』は本校が横浜市立学校であることを示しています。『Y』を白抜きにした理由は、鍼・灸・あんまの三療(医療従事者)養成学校としての歴史を表す白であり赤紫地は再出発の意という説明が聞かれました。

校章の鳥は『鳩』であると多くの市民に思われていましたが、実は『青い鳥』です。この『青い鳥』は“福祉活動で有名なへレン・ケラー女史が、パーキンス盲学校卒業後、ラドクリフ女子大学(現:ハーバード大学)に入り、同大学を優秀な成績で卒業した時(1904年)に『青い鳥』の作者メーテルリンク婦人が当時のアメリカを訪れていて、同夫人が大学を訪れ「あなたこそ幸福の青い鳥を発見したただ一人の人である。」と言って女史の卒業を祝福したことから始まります。これを伝え聞いた毎日新聞社が中心となって設立したへレン・ケラー・キャンペーン委員会がその言葉にあった『青い鳥』を意匠化し、へレン・ケラー女史の署名を配した七宝焼きの美しいブローチとバッジの製作を企画、製品化を成功させました。その名は、『幸福のブローチ』『希望のバッジ』とされ、これを身につけていれば常に女史の精神に近づける上、女史のように明るく楽しく努力すれば、全ての人々はきっと希望の青い鳥を発見できるであろうとキャンペーンを行った (東京へレンケラー協会50周年冊子より引用)”話をヒントにデザインされたようです。この青い鳥のつながりでヘレンケラーが1955年(昭和30年)に来校し、1999年(平成11年)には、パーキンス盲学校長が来校しました。

1950年(昭和25年)にゼロから出発した本校の幼児児童生徒が、女史のように明るく楽しく(正しく)努力し、希望の『青い鳥』を発見できるようにとの願いを込めて本校の美術科教諭の横尾久子先生がYに加えデザインしたものです。横浜市立盲学校初代校長靏見明音先生の校歌の歌詞に『あかるく強く正しく学び、希望の高嶺にいまぞのぼらん』とある部分がこの経緯をあらわしています。なお、本校の校章は3代目のものです。初代の校章は1899年11月(明治32年11月)に野毛町2丁目から羽衣町1丁目に校舎移転を記念して「紫地に白抜き桜花の中心に鍼醫と金文字」としたものです。2代目校章は、1907年4月(明治40年4月)に学校名を私立「横浜盲人学校」と改名したことを記念して、「海と横浜港を示す青紫地に桐の花と光明を表す黄星の中に横盲を金文字」としました。五七桐は淺水家の家紋です。淺水家が経営する私立盲学校ということを示しています。この校章は、創立者の淺水進太郎校長が眼科診察の合間にデザインしたと伝えられています。横浜市移管50年・創立112周年式典にあたり、山内 修盲学校長の指示で来校者に説明できる資料をつくる為に教務部職員が当時の職員の家族にお聞きしたり、過去資料を調査するなどしてまとめたものです。

平成12年10月