平成28年8月29日(月)

 8月上旬に、滋賀県にある安土城の天主(守)跡に立ちました。ここは学生時代に日本史の研究サークルの仲間と訪れた場所で、実に37年ぶりの風雪に耐えてきた礎石との再会でした。当時この天主跡の礎石の前で、『信長公記』の安土築城のくだりを代表者が読み上げ、皆で本能寺で不本意な死を遂げた信長に思いを馳せました。

 天正4年(1576)1月、信長は琵琶湖の水運を生かし、安土山に築城することを重臣丹羽長秀に命じました。通説では外観五層、内部七層の豪壮な天主で、4回までが吹き抜けの構造で空中につり舞台がつきだし、各層の座敷には狩野永徳らの著名な画工が腕を振るったすばらしい絵が描かれていました。高さは47メートルで、当時は東大寺大仏殿をしのぐ、日本一の高さを誇っていたようです。

 学生時代の記憶といえば、細い山道を登って何とか天主跡の礎石にたどりついたことだけです。今では天主までの大手道の左右に、羽柴(豊臣)秀吉、前田利家、徳川家康などの屋敷跡が大規模な石垣を持った遺跡として整備され、さらに山頂の天主跡付近では、家臣の石垣とは比べものにならない巨石で石垣が組まれているのをみることができました。一つひとつ記憶を掘り起こしながら上り詰めた天主跡に久しぶりに出会い、変わらぬ姿に不思議な感動を覚えました。たとえ時は流れていても、その場所に立って初めて感じることがあり、過去の事実や当時の人々の思いを知ることができると思っています。

 

 以下は織田信長の家来であった太田牛一が書いた『信長公記』で、安土城の築城についての記述で当時読み上げた一部分です。今回は現代語訳(中川太古訳)で紹介します。

 『4月1日から、安土山の大石で、城の敷地内に石垣を築きはじめた。その中に天主閣を建築するようにとの命令であった。尾張・美濃・伊勢・三河・越前・若狭・畿内の諸侍、および京都・奈良・堺の大工や諸職人を召集し、安土に詰めさせ、また、瓦焼き職人の唐人一観を召し出した。天主閣は唐様に仕上げるよう命じた。

 観音寺山・長命寺山・長光寺山・伊庭山など、諸所の大石を引き下ろし、これを千人とか二千人、あるいは三千人がかりで安土山に引き上げた。石の担当奉行は西尾善次・小沢六郎三郎・吉田平内・大西某で、大石を選びとり、そうでないものははねのけた。この時、織田信澄が大石を安土山の麓まで運び寄せたが、蛇石という名石で、とてつもない大石であったから、どうしても山へ引き上げられなかった、しかし、羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀の三人が指揮して、人足1万人を掛からせ、昼夜三日がかりで引き上げた。信長の例の方法で、容易に天主閣の敷地へ引き上げられたのである。昼夜、山も谷も動くかと思われるほどの大騒ぎであった。』