学校のあゆみ 

 

明治維新前

上倉田に実方長蔵なるものあり。算数の術に長じ近隣より教えを乞いし者
少なからずというもその実績不詳

明治初年まで

児童の教育はいわゆる寺子屋に依託 その学科は四書教経,実語教,商売往来等の
素読および訓議と習字等に過ぎず,教師は僧侶の専任

明治初年

寺子屋のおもなものは上倉田の林宗寺,飯島の光長寺等

明治 5年 2月

下倉田英勝寺に龍臥学舎を創立,教員1名,生徒男28名 女21名にして教師の報酬は
生徒1人につき一ヶ月白米1升の定めなりき

明治 5年

学制発布せられこの学制によれば,全国を8大学区に分かち各区を32中学区となし,
各区に中学を設けさらに中学を分かち手各210の小学区となす。即ち本村は各大字とも
第1大学区,第10中学区に編入

明治 9年11月

上倉田の林宗寺を同所西見谷に上倉学校を新築,下倉田の龍臥学舎,長沼の
長徳寺(現在は廃寺),飯島の光明寺および般若院を隣村の笠間・小菅谷と合して
三和学校を設立

明治11年

下倉田は同所脇谷に倉田学校を新設。翌12年長沼にこれを合併,明治21年倉田も
これに合併

明治25年 3月

本村下倉田・長沼の境界県道に面する地点に尋常豊田小学校を新設し,倉田学校および
三和学校を廃し始めて一村一校の基礎が確立。これが本校の創立である

 

学校の隣家より出火し類焼に災いに罹り同年8月再築を了した。費用は村民の負担と寄付
にしてその金額は666円余なり。当時の職員は男2名。児童は男72名,女26名,計98名

大正 4年 4月

鎌倉郡尋常高等豊田小学校と改称,高等科を併設

大正12年 4月

鎌倉郡豊田尋常小学校と改称

大正15年 4月

青年訓練所併設 昭和10年3月同上廃止

昭和14年 4月

横浜市に編入,横浜市豊田尋常小学校と改称

昭和16年 4月

横浜市豊田国民学校と改称

昭和20年

大東亜戦争苛烈,軍隊駐屯のため全校舎を明けわたし各部落ごとに神社・寺院等を
利用して授業開始

昭和20年 8月

敗戦により軍隊解散し学校に復帰

昭和22年 4月

学校教育法施行により横浜市立豊田小学校と改称

昭和23年 4月

横浜市立豊田小学校PTAを組織

昭和24年12月

「社会科を中心とする関連カリキュラム」の構成が一段落したので試案として
「豊田教育計画」を全市小学校に対して公開発表

昭和25年10月

横浜市よりの「地域社会学校研究指定校」を受託

昭和26年 4月

横浜市よりの「地域社会学校研究指定校」を受託

昭和26年 9月

「地域社会学校研究指定校」として昭和23年以来の研究成果を「豊田教育計画第二次案」
にまとめ全市内小学校を対象として公開発表会を開催

昭和31年 2月

国語・社会科の研究発表会開催

昭和33年 1月

区内小学校を対象に社会科研究発表会を開催

昭和33年11月

区内小学校家庭科研究会を開催

昭和34年 2月

区内小学校を対象に国語研究会開催

昭和36年 2月

区内対象に道徳の時間研究の研究発表会を開催

昭和36年 5月

昭和36年度市道徳教育指定校を受託

昭和37年 4月

昭和37年度市道徳教育指定校を受託

昭和37年 6月

市研究指定校道徳教育研究会を開催

昭和38年 6月

区内小学校を対象に道徳研究会を開催

昭和41年 4月

田谷分校独立し千秀小学校となる

昭和42年 7月

プールが完成

昭和44年 4月

飯島分校が飯島小学校として独立

昭和50年 4月

特殊学級を家庭科準備室を利用して開設

昭和57年 7月

第2運動場完成

昭和61年11月

栄区発足により学校住所在地変更 栄区長沼町125-4となる

昭和63年 2月

倉田小学校開校にともない,上倉田町と下倉田町の一部が豊田小学校の学区より分離
される児童数は666名となる

平成 3年10月

100周年記念式典を行う

平成 9年 4月

横浜市人権教育実践推進校を受託

平成10年 3月

横浜市防災備蓄庫設置

平成11年 4月

横浜市障害児理解教育推進校

平成12年 4月

横浜市障害児理解教育推進校

平成13年 3月

音楽室床改装工事、ジャングルジムなかよし橋塗装工事

平成14年 4月

門扉(プール側)改修

平成14年 8月

外壁剥落防止工事

平成15年 7月

揚水管移設工事

平成15年 8月

第1グランド校庭整備工事

平成16年 3月

防犯用ビデオ設置

平成17年 2月

第2グランドフェンス改修工事

平成17年 3月

A棟1階教室改修工事

平成17年 3月

第1グランド防球ネット撤去