まちのようす


○ 児 童 遊 園 地
○ 英 連 邦 墓 地
○ 瀬 戸 ヶ 谷 古 墳
○ ま ち の 学 校 と し て



○ 児 童 遊 園 地

  樹林に囲まれた池や自由広場など自然地形を生かして昭和36年に作られた公園です。
それ以前は今の英連邦墓地にありました。初めの児童遊園地は大正11年に市内の小学生が10銭ずつ出しあって児童のための公園として生まれました。
戦前は小学生の格好の遠足地として親しまれました。
 
瀬戸ヶ谷小学校でも、1年生は春の遠足を初め、生活科の学習で使っています。
  各学年やクラブ活動でも植物の観察や採集で学習に行くことが多いです。全校では、秋に半日を使い「全校オリエンティーリング」をしています。
そのときは、いろいろな学年の人たちが集まった縦割りのグループで活動します。
 児童公園の中にある池です。
古代ハスや幾種類ものはすが咲いています。コイやカメやクチボソもたくさんいます。












○ 英 連 邦 墓 地

  正式名称は、横浜英連邦戦死者墓地です。第2次世界大戦の時、英連邦やオランダなど横浜の収容所でなくなった方々が埋葬されています。「英連邦墓地」と言っていますが、正式には「横浜戦死者墓地」と呼びます。児童遊園地に隣接した、緑の美しいところにあります。そこは、学校から子どもの歩く速さで30分位かかります。外国人墓地としては、中区の山下公園近くの外国人墓地が有名ですが、隠れた名所スポットです。この墓地には、英連邦やオランダなど横浜の収容所で亡くなった捕虜の遺骨が埋葬されています。また、日本各地の収容所や埋葬地から遺骨が集められました。横浜墓地に納められた遺骨の中で名前が分かっているものは、納骨堂の内部の壁に刻まれています。この墓地は、自然な庭園に設計され、それぞれの故郷から運ばれた植物が植えられています。四季折々の草花が亡くなった方の霊を慰めていることでしょう。
−英連邦戦死者墓地委員会の案内文から−COMMONWEALTH WAR GRAVES COMMISION
委員会は1917年にイギリス王室勅許により設立されました。その目的は,二つの世界大戦で亡くなった英連邦各国の兵士のお墓を維持すること,お墓のないものの記念碑をつくること,両大戦の記録と戦死者の登録,およびそれ以降の動乱でなくなった人の記録をつくることです。この仕事では次のような基準がまもられています。それぞれの戦死者の名前を墓石か記念碑に書いて記念しておくこと,その墓石や記念碑は恒久的なものであること,墓石は統一され軍や社会的な階級で区別されないことです。維持費用はパートナー政府ーイギリス,カナダ,オーストラリア,ニュージーランド,南アフリカ,インド,パキスタンによって,各国のお墓の数の割合にしたがって分担されています。他の英連邦各国政府はそれぞれの国内にある記念碑の維持費を分担しています。 170万の英連邦軍の男女が二つの世界大戦でなくなりました。90万強が個人別のお墓に埋葬されています。残りは,埋葬位置が不明で,記念碑に名前が記載されています。戦死者の墓地は145ヶ国にあり,そのほとんは委員会の2500ヶ所の戦死者墓地にありますが,民間墓地や教会墓地の一部におかれている所もあります。この膨大な仕事を遂行するために委員会は2000人ちかい職員,おもに庭園管理や建築物維持の技術者を雇い,数ヶ国に事務所をひらいています。墓石のいちばん上には各国のシンボルか連隊の記章が,その下に順次階級,名前,所属部隊,死亡年月日,年令,また各人にあわせた宗教の象徴が,そしていちばん下に,遺族の希望による文章がほられています。ガリポリ半島,マセドニア,東アジアなどの墓地では,地震などの理由から,台の低い,石またはブロンズの墓石がつかわれています。墓石はバラやツツジ,背の低い草花をはさんで一列にならべられ,芝生や灌木,喬木にかこまれています。記念碑は,ふつう2種類あります。十字架(Cross of Remembrance)があります。おおきい墓地には入り口に建物があり,休憩したり登録名簿を見られるようになっています。 墓地および記念碑の登録名簿は各墓地の名簿置き場にあり,また委員会の事務所でもみられます。


○ 瀬 戸 ヶ 谷 古 墳

 今の瀬戸ヶ谷町53番地付近において、昭和18年に発見された古墳です。横浜では、屈指の規模をもつ古墳でした。
発見の経過
今の瀬戸ヶ谷町53番地付近において、昭和18年に発見された古墳です。地主の軽部三郎氏が、耕作中に埴輪(はにわ)を発見した。以前から、地元の人によって、古墳の存在は知られていましたが、はっきりどこに、どのくらいの大きさのがあるか調べたことはなかったようです。
その後の調査によって、県内の古墳では見ないほど多くの埴輪が発掘されました。きっと力を持った、大きな豪族が住んでいたのでしょう。古墳の形は、下の図にあるように後円部を西におき、東に向かう方位をとる前方後円墳であることが確かめられました。また、副葬品などの調査からこの古墳は、6世紀に作られたものであることが確認されました。それで、土地の名をとって瀬戸ヶ谷古墳と呼ばれることになりました。
古墳の今serv031.jpg (3817 バイト)
以前はJRの東海道本線(下り)の保土ヶ谷駅を過ぎてすぐに進行方向左手の車窓から丘陵の高いところに瀬戸ヶ谷古墳のそれと分かる姿を望むことができました。今では、一面に住宅が並び、古墳が破壊され、その面影は全く見られなくなってしまっています。横浜では、屈指の規模をもつ古墳でした。
古墳からの発掘品
○たくさんに埴輪(古墳の周りにおかれた素焼きの焼き物)
 ・円筒埴輪haniwa1.JPG (5824 バイト)がもっとも多い。

・家形、帽子、楯、刀、蓋(きぬがさ)、ゆき(矢を射れる器)などの器物埴輪も、目立って発見されている。

 ・動物埴輪(馬)、人物埴輪(男、女子像)も見られます。haniwa2.JPG (8014 バイト)

これらたくさんの埴輪の発見から、現世の世界を死後の世界まで持っていこうとする意図と願望が読みとれます。

埴輪写真の挿入

 これらの埴輪は、現在、東京国立博物館に収蔵されています。
他の遺跡
見晴らしのよい大地に広がる瀬戸ヶ谷町には、このほかにも縄文から古墳時代の集落跡(49番地付近)が見つかっているし、208番地、138番地付近からは、縄文時代前期から古墳時代にかけての遺物が発見されたそうである。
横浜市歴史博物館において「横浜の古墳と副葬品」のコーナーにおいても展示されていますので、是非ご覧ください。横浜市歴史博物館(http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/)


○ ま ち の 学 校 と し て

学校は、子どもたちの学びの場でもありますが
まちの人が子どもたちといっしょに活動したりする「まちの学びの場」でもありますし、まちの共有施設として活用できる場でもあります。
学校は「まちの教育・文化・情報センター」です。
また、「まちのふれあいセンター」としての役割を果たすことができれば、まちの人々の連帯感が深まり、子どもたちのまちの一員としての自覚を高めることにつながるのではないかと考えています。